一般財団法人 小笠原財団

小笠原家

 小笠原家は、清和源氏の流れを汲む八幡太郎義家の弟新羅三郎義光を祖とする甲斐信濃源氏の嫡流で、1162年甲斐国小笠原の荘に生まれた始祖小笠原長清は源頼朝に仕えてその信頼も厚く、源平合戦にも参加しました。先祖伝来の弓馬の二法を以て源頼朝の師範となり、以後小笠原家は代々の将軍の師範をつとめていました。
 第7世小笠原貞宗は弓馬の二法に更に礼法を加えて、弓馬礼の三法を家法として伝える基を築き、これを糾法と名付け、後世に正しく伝えることを的伝と称しました。有力守護職で足利尊氏の礼式奉行を務めたに小笠原貞宗は、後醍醐天皇にも親しく弓馬の秘伝を伝え、「小笠原は日本武士の定式たるべし」の御手判と「王」の字を家紋に賜り、これを型どった三階菱の家紋を今に用いています。第10世の小笠原長秀は足利義満の命を受け、今川氏頼、伊勢寛忠とともに「三儀一統」の書を著しています。 
 小笠原長清以来、信濃の守護職として栄えてきた小笠原氏も、戦国時代の1550年第17世小笠原長時の代に武田信玄との戦いに敗れ会津に逃れました。長時の3男小笠原貞慶は9歳で父と別れ阿波の分家三好氏を始め各地を流浪の後徳川家康に仕えていましたが、本能寺の変後の混乱に乗じて小笠原家旧家臣と共に古城深志を攻め、1582年32年ぶりに深志城を回復し松本城(初代松本城主)と改めました。
 小笠原貞慶は流浪の間も会津の父を訪ね家法の伝授を受け、父とともに京に上り将軍足利義輝に弓馬を伝えるなど家法の研究に務め、1584年には「小笠原礼書七冊」と称する礼式書を著し、嫡子の第19世小笠原秀政に伝えました。
 小笠原秀政は嫡男小笠原忠脩、次男忠真とともに大阪夏の陣に参戦し1615年小笠原秀政、小笠原忠脩は戦死、第20世小笠原忠真(徳川家康の娘を正室に迎える)も重傷を負うがその功績が認められ、1617年播磨国明石10万石に封じられた後、1632年小倉15万石へと移封されました。小笠原忠真は地域の産業、文化の振興に力を注いだほか、槍術の達人高田又兵衛等を武術の師範として迎えたことが知られています。
 さらに、小笠原忠真の弟小笠原忠知は杵築4万石、その弟小笠原重直は松平丹後守の養子となり宇佐郡龍王3万7千石、兄小笠原忠脩の遺児小笠原長次は中津8万石というように、小笠原忠真は九州北辺に合わせて30万石を超える譜代大名小笠原系諸藩の惣領として、徳川幕府の九州対策の要としての役割を果たしてきました。
 以後、幕末の藩主第29世小笠原忠忱まで200年余りの間小倉の地に根を下ろしましたが、明治政府の廃藩置県政策により、小笠原惣領家は伯爵となり、第30世小笠原長幹は貴族院議員として国勢調査を始めるなど国政に寄与し、兄の第31世小笠原忠春の隠居により第32世当主・伯爵となった小笠原忠統が小笠原家に伝わる糾法を著しましたが1996年死去、現在は小笠原長雅が第33世当主となっています。

小笠原糾法

 鎌倉時代以来、数百年の歴史をもつ小笠原家の糾法(きゅうほう)は、初代の小笠原長清が源頼朝の糾法師範に任じられ、室町時代には、足利義満の命により第10代小笠原長秀が今川氏・伊勢氏と共に「三議一統」を編纂し、のちに第18代小笠原貞慶により「小笠原礼書七冊」としてまとめられています。
 小笠原家に伝わる礼法は、その日常を通じて自身の体を鍛えることも大切な要素であるとし、800年以上にわたり継承されてきた武家礼法の伝統を未来に向けて伝えていくことが大切な使命であると考えています。
  今日の礼法は、広く一般に伝えられている小笠原流に限らず、さまざまな流派においても、鍛錬から生まれ実用的であり、効用的な所作を基本に、他人への温かい心遣い、おもいやりの心を目立たない自然な形でさり気なくあらわしています。

小笠原家と宮本武蔵

 1612年の剣客宮本武蔵と「岩流」(佐々木小次郎)との源流島(山露見下関市)での血統は有名です。当時の巌流島は小倉藩の領地でした。決闘の後、諸国を廻っていた武蔵は1634年小倉に来て、小倉藩主第20世小笠原忠真の客としてもてなされました。 当時、宮本武蔵の養子宮本伊織が小倉藩の家老であったため、宮本武蔵は、生涯の中で最も長く滞在したのは小倉であったと言われています。